奈良の秋もすっかり深まり、朝夕の寒さと共に心を彩る紅葉がすぐそこまで来ている。もう直ぐ50歳の大台に手が届くこの頃、ときどき昔のことを思い出すのは歳をとったせいかなと自分に問いかける。一浪して医学部に入学、大学院卒業後は大学の付属病院に勤務し、産婦人科臨床を必死に学んだのが、ついこの間のことのようである。
医者になって6年目の秋、ひとり医長として初めて産婦人科医局の関連病院に派遣されることとなった。当時付属病院で主治医をさせていただいた患者さん達に別れを告げるため訪れた婦人科病棟、そのとき眼にうっすらと涙を浮かべたOさん。まだ40歳になったばかりの彼女は子宮がんの末期でもう手のほどこしよ うがなかった。次の日病棟で彼女の口から意外な言葉を聞いた。
「中野先生、私の実家は今度先生が赴任される病院の近くなんです。先生が転勤されるなら私も一緒に連れていってください」
思いがけない言葉に驚いたが、断る理由もなく、
「いいですよ。でも、大学病院ほどスタッフの数も医療設備も整っていませんよ」
そして彼女は、私の赴任先で最初の患者さんとなった。当時、彼女にはご主人と看護学校に通う娘さんがいて、いつもかいがいしく傍に付き添っていた。
子宮がんの病状は最悪で、腹部の皮膚まで癌の病巣が浸潤し、下半身移植が可能ならばしてあげたいほどであった。痛みを緩和するために、背中に鎮痛剤を注入するためのチューブを入れ、尿管が腫瘍で圧迫されて尿が出なくなったため、腰の皮膚から腎臓にチューブを入れて尿路変更をし、それでも毎日の回診のとき には笑顔で迎えてくれて、新任の私が逆に勇気づけられていた。そして赴任先の病院で、最初に見送った患者さんも彼女であった。
あれから20年、たまたま当時から面識のあった現院長先生からの依頼で、その病院で外来診療をすることになった。ある日の外来終了後、1 人の看護婦さんが訪ねてきた。聞けば、あの日看護学生だったOさんの娘さん。何のえにしか、今この病院で働いているとのこと。当時の話をいろいろとしていただく。
「母は、若くして逝ってしまいましたが、結構入院生活を楽しんでいました。毎日先生の回診の時間が近づくと、病室でお化粧を直してたんですよ。バレンタインデーには、自分で歩けないから、病院の売店でチョコレートを買ってきてと頼まれて、父がやきもちを焼いてました」
今になって懐かしく思い出しながら、若かった私に臨床家として様々な経験を積ませてくれたOさん。そして彼女の娘さんから教えていただく当時の出来事に、もう一度感謝を込めて手を合わせる。Oさん親子は、私にとって生涯忘れることのできない大切な1ページをくっきりと記している。